孤独hack

”おひとりさま”人生にをちょっとラクに

寂しさを紛らわすための「忙しさ」について

誰しもが一度は体験した事があるのではないだろうか。例えばクリスマスに何も予定が無いとして、その日はあえてバイトを入れる、とか。他にも周りが忙しくて誰もかまってくれない時、何か無理矢理予定を入れて忙しくする、とか。きっと誰にもこの経験はあると思う。特に女性で多い気がするが、その理由に対する考察は以前書いた。

僕はこの方法は、短期的に寂しさを紛らわすには良い方法だとは思うが、ずっと続けるようなものでもない、と思う。50歳60歳になって、この手法で寂しさを紛らわすのは間違っていると思う。それにはいくつか理由がある。

 

いつかは孤独と向き合わないといけないのに逃げている

まず、この手法は、寂しさや孤独感から逃げていると言える。それ自体別に問題にはならないのだけど、逃げ続けていると、いつか本当の寂しさに打ち拉がれるか、もしくは「寂しさから逃げて忙しくしている」間に死んでしまう。つまりいつかは自分の孤独感、寂しさのようなものと向き合わなくてはいけない時が来るから、あくまでそれまでの間に少しだけ使う方法に過ぎない、と認知して使うべきだ、という事だ。そうしないと、最終的には「気づいたら死んでた」か「うつ」になっておしまいだろう。

 

孤独という贅沢な時間をムダにしている

本来、孤独で自由な時間というのは、かなり贅沢なものだ。おそらく人間、一部の霊長類にしか無い。他の生物は生きるために他生物を殺し食らう事に命を掲げ、子孫繁栄のために生殖活動をし子育てに躍起になる。そして次世代が育てば、自分は死ぬ。カマキリのメスは生殖が終了した際に「もう用無し」のオスを「栄養源として食べる」し、クモは母親の腹から孵化したらその勢いで母親の体を「栄養源として食べる」わけで、彼らは生きるために生きている。人間や猿にだけ、趣味や遊び、補食と生殖以外のための活動にあてる時間が許されている。それは我々が進化をし、捕食者として優秀であるから、補食と生殖だけを目的に生きるには時間が余りにもあまって、結果的に「文化」が生まれ本、学問、スポーツ、音楽、などの活動がうまれた。これらの活動を行うのは、あくまで生存に必要な作業に使う時間を全体の時間から差し引いた「余りの時間」で行う事ができる。そしてその活動を完全に個人の自由に行える時間が、「孤独な時間」なのである。もちろん、他動物でも孤独な個体は数多く存在するが、彼らは孤独な時間を全て補食にあてている、つまり生存活動に必要な作業にあてている。そこが人間は大きく違う。人間はその「孤独な時間」を、「孤独で自由な時間」にする能力を持っている優秀な種だ。その孤独で自由な時間を、自分の趣味、文化的活動にあてないのは、人間の特権を放棄している事になる。なんとももったいない。

 

孤独に向き合い自分の時間で好きな事をできるようになる

最終的にこれが最も人間らしく、文化的で、死ぬときに「良い人間としての生を生きたな」と思えると思う。孤独から逃げるだけではいけない、その時は心安らぐかもしれないが、いつかは向き合わなくてはいけない。向き合うまでの時間が長ければ長いほど、失われた時間の膨大さに気付き絶望するだろう。