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「みんな誰かと話したい」資本主義による群れの解除と孤独な中年〜老人の量産について

病院でやたらと喋ってばかりの老人、電話口でオペレーターと雑談をしたがるおじさん、ジムの受付の人とやたらと絡むマッチョなおじさん、やたらと後輩をネチネチと叱るコンビニの中年おばさん。みんな、その本質は「誰かと話したい」という率直な気持ちに過ぎないのだと思う。

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周りに話す人がいない、という現象

これは現代に非常に特有な現象であろう。昔は、同じホモサピエンス、人類は家族単位で住んでいなかった。集団を作り、どちらかというと今でいう猿に近い生活形態を敷いていた。いわゆる「群れ」という団体である。ここでいう「群れ」とは、若い有能なオスがリーダーをして、長寿で知恵のある老人がそのバックにおり、あとは個々の家族という単位で暮らしながらも、仕事や敵との戦闘をチームで行う集団の事である。

群れが解除された現代

人類は次第に豊かになるにつれ、より心地よい環境を求め進化を続けた。ことさら「自由」と「豊かさ」を求め続けた。前者のわかりやすい例は完全民主主義制度であり、選挙権の平等である。後者のわかりやすい例は、便利な電化製品、パソコン、などのあらゆる物質的豊かさの事である。

すると、次第に「群れ」が解体され始める。厳密には、解体されより大きな群れに統合された。ー国家である。さらに戦争を繰り返し、「小さな国家」、つまり植民地は「大きな国家」、つまり先進国に吸収され、皆どこかの大きな国家に属する事になった。その後次第に植民地は返還されたが、歴史的、経済産業的にいきなり独立というわけにもいかず、内容面では先進国とつながり続けている。

大きすぎる「群れ」は「群れ」の機能をなさない

国家という大きな群れは、民主主義を行う上で必要な人類統治を行うため、必要なシステムだ。しかし、これほどにまで大きくなった群れは、もはや群れとしての機能をなさない。なぜならば、お互いがお互いを把握しきれる範囲を超えているからだ。北海道のXさんと、鹿児島のYさんは同じ「群れ」だが、顔すら見た事がないだろう。結果的に、群れの機能を失った先進国は、家族や親しい友人に人間関係がとどまってしまうのである。

しかし、今度は人間が「近所」という「群れ」を作り出した。祖母の話をきくと、昔は近所でとにかく助け合っていた、という。具体的には、料理があまったらあげるし、子供の面倒をみてもらったりもしたし、一緒に晩ごはんをしょっちゅう食べていたという。これが「群れ」としての機能をなしている、小さな群れであろう。しかし、人類は、特に先進国は、資本主義に則って進化を続け、今やご近所付き合いというものがなくなってしまった。ここでまた、小さな群れを得るチャンスを失った。

「小さな群れ」を作り属する事で孤独を解消できる

ここで、やはり親しい限られた人間関係だけの人というのは、より孤独に陥りやすい。なぜかというと、相手の人間関係の広さが広かった場合、あなたにかけられる相手の時間は、あなたが相手にかけられる時間より少ないからである。そしてその確率は低い。

資本主義の現代、時間というものの貴重さはより高まっている。群れを失った原因でもあるこの時間だが、その価値は個々で多様である。その時間価値の感覚が自分に似通った人でないと、少なくとも一方は孤独に陥る可能性は高い。群れが解消された現代では、その親しい人以外に話す人がいないのだから、持て余した時間で誰かと話す事はできないわけだ。

そこで、なるべく自分に近い人と出会える確率を高めるため、試行回数をとにかく増やす。そのためには「小さな群れ」に入る必要がある、大きな群れではいけない。理由は先ほど述べたように、お互いがお互いを把握できないからである。そこで共通の趣味、気の合う人、などを見つける事が、「誰かと話したいだけ」の人を救うだろう。