孤独hack

”おひとりさま”人生にをちょっとラクに

孤独な人に限って趣味が無い場合が多い

と思う。なぜだろうと考えているけど、そもそも趣味が無いから孤独なのか、孤独だから趣味が無いのか、因果関係の方向性がどちら向きかという問題がある。まず趣味が無いと孤独に近づく、これは正しいはずだ。趣味がある人に比べて、その趣味を通じて人と知り合う可能性が0だから。「趣味が無ければ孤独」は成り立たないけれど、「趣味が無ければより孤独になる」は成り立つ。

 

次に、「孤独だから趣味がない」について。これについて絶対正しい事は何ひとつ言う事はできないけど、思い当たるふしが1つあるので紹介。

 

夜間救急の外来では、たまに虐待児童がやってくる。「階段から転んで頭をぶつけてからこうなった」と言って親が頭部外傷を負った子供を小児科に連れてくるが、身体検察すれば体表にアザがあったりタバコの焼き痕があったりする。そういう場合こっそり児童相談所などに連絡を入れる事になっているが、それはまあ置いておいて、まず虐待児童の顔というか、雰囲気が特徴的なのだ。目が見開いていて、どこか遠くを見て目が動かない。どことなく無気力で無表情な印象を与える。口をあけてぼーっとしている。目の前におもちゃを持って来ても一切の興味を示さない。診察には協力的で、指示に正確に従う。注射や多少の痛みを伴う検査・治療でも泣いたりせず、何も動じない。ある意味、おとなしくて扱いやすい子供である。教科書的にも虐待児童は得てして無気力・無感動・無関心の状態が多いとされている。

 

何らかの理由で親からの虐待に近いものを受け、過去に深い傷を負い、何にも感動できず、関心が無く、何かをしようという気力も起きない、そんな心理状態がバックにあっての「無趣味(=無関心)」であれば、それは孤独になっても致し方ないのかもしれない。生まれてすぐ、1番信頼できるはずの、血のつながった親が信頼できない存在であった環境で、誰かを信じてよりかかって、親身になれるなんて考えられないだろう。このケースでは、「孤独だから無趣味」、という因果関係の方向性は成り立たないが、「孤独のセットとしての無趣味」は成り立つかもしれない。