孤独hack

”おひとりさま”人生にをちょっとラクに

孤独に悩む人は「映画”LEON”」を観るべき

孤独な2人の物語

主人公であるレオンは、鉢植えに植えてある植物だけが友達の殺し屋。殺しをして、牛乳を飲んで、腹筋をし、鉢に水をあげるだけの毎日。そしてナタリーポートマン演じるマチルダ。彼女は親に殴られ、タバコを買いに行かされるだけの日々を過ごしていた。親に元々愛される事無かった彼女だが、ある日家族がマフィアに皆殺しにされる。そこで隣人であるレオンに助けを求め、一緒に暮らす事になる。

孤独な2人が一緒にいるとどうなるか

彼らは孤独じゃない状態を知らない。お互いに。もし「孤独じゃない」という状態が何かしらの知識やハウツーであるなら、彼らはお互いに知らない事であるからそれを教え合う事はできない。かけ算のやり方を知らないのに、かけ算の問題を教える事はできない。果して彼らは孤独から抜け出せるのだろうか。

答えはイエス

彼らは見事、孤独からの脱出に成功する。少なくとも、精神的な「孤独じゃない状態」を味わう事ができる。詳しくは映画をみてほしい。そうした事から考えるに、孤独を脱出する経験、知見のようなものは生来人間が獲得しうるものだという事がわかる。例えば産まれた時に息をする方法を、私たちは知らないがその場で習得する事ができるし、人に「石を投げたら痛いだろうな」と幼児期には思う事ができる。別に石を投げられて当てられた経験がなくとも、すんなりと頭の中に入ってくる。石の例はあくまで基本的な物理法則を普段の経験から類推できるだけに過ぎないが、あまりにも生得的、基本的過ぎて誰もにすんなり納得できる知識、という点で「知識や知見としての孤独」は同じだろうという意味だ。つまり、「孤独からの脱出感」というのは、別に誰から教わるわけでもなく、体験や経験によって誰もが取得できる感覚であるという事になる。これは大いなる希望である。

 

孤独な嘘つき

孤独な人は嘘をつく傾向がある、嘘をつく人は孤独な傾向がある。病的なまでに、明らかに嘘をつく人もいれば、全然気づかない程度の嘘だけを真実とうまく織り交ぜて嘘だとわからないようにするウマい人もいる。今回は後者について、つまり何かしら意図や目的があって嘘をつくタイプについて。

 

なぜ嘘をつくか

気づかない程度の嘘をつく人は、他人との距離をうまく保てない人が多い気がする。「飲みに行くか?」と誘っても、「バイトがあるから」といって断る、そして飲屋街で別の人と飲んでいるそいつを発見する、といった具合の事が起こる。なんでそこで嘘をついたんだろう?と思うような事が多い。正直に「他の人と飲みに行く約束があるから」と言えばいいものの、なぜかそれを言わない。

 

相手と深く関わる事を恐れるケース

最近の若者は飲みに誘っても来ない、とどこかのニュースで嘆いているおっさんがいた気がするが、どうも昔に比べて最近の若者は飲みに誘っても来ない人が多いらしい。この原因には、1人でも十分楽しめるエンターテイメント(ゲーム、動画サイト、SNSなど)が発展した事があげられると思う。つまり、独りでも楽しめる時代になったから、無理に他人と一緒の時間を過ごすより気楽に独りで過ごしたい、という人が増えた。そのためか、その1人の時間を確保しようと小さい嘘をついてまで独りになろうとする人がいる。それが良いとか悪いとかは置いておいて、無意識の内に「気楽な独りの時間」を欲するあまりに、小さい嘘をついて独りの時間を確保している、という事をメタ認知した方が良いと思う。なぜならそういう人に限って後から「ああ…私は孤独だ…」などと嘆く傾向がある、と私は思うからだ。その孤独な状況は、自ら望んで作ったものであるという事を忘れると、その孤独からは二度と抜け出す事はできないだろう。

 

嫌われる事を過度に恐れているケース

考えられる2つめは、相手に少しでも嫌われたく無いと思って嘘をついてしまうケース。上記のように、「”他の人と飲みに行く”という情報を伝える事でもしかしたら相手に嫌われるかも」、という気持ちで嘘をついてしまう。この根底には信頼感の欠如がある。別に飲み会の誘いを断るくらいで嫌ったりするような人間は少ないと思うし、前々から約束していたわけではないし、正当な理由があるならそれを相手にきちんと伝えれば何も問題無いはずだ。彼は私たちに対して、「これくらいの事を相手に言ったりしても大丈夫だ、それで崩れるほど信頼の無い仲ではない」という信頼感が無いのだと思う。

 

信頼感が欠如する理由

信頼感が育つ時期は、乳児期だと言われている。信頼を感じる初めての体験は、赤ん坊の頃に「泣いたら親(主に母)が助けに来てくれる」という体験に基づくらしい。もしかしたら、この信頼感の欠如を抱えている人は成長過程で、親から半ばネグレクトを受けた人なのかもしれない。

 

このタイプの孤独な嘘つきは、残念ながら嘘が治らないかもしれない。乳児期に最も信頼できるはずの親すら信頼できなかった経験を持っているから、ましてや他人を信頼する事が難しいのは自明だ。その「乳児期の親」をも越えるような信頼できる相手を見つける事が、ある意味人生初の信頼体験となり、そこから他人への信頼の波が波及するかもしれない。彼らの人生のキーになるだろう。

 

追記:私はこの2タイプの傾向をどちらも併せ持っているため、自戒の念もこめて書いた。このページにたどりついた人は似たような苦しみを抱えていると思う。生きる事を諦めずに、何が問題なのか掘り下げて明確にし、一つずつ解決していこう。

 

無性に心にしみる音楽と映像ってあるよね

 

最近やっと市民権を得て来たEDMだが、特にDubstepの中ではSkrillexの曲が何か悲しげなメロディで、唯一オリジナリティとセンスを感じる。Deadmauがデイビットゲッタを「ただのマネごと」と罵ったように、パイオニアからすると二番煎じはやはりおちゃらけに見えるのだろう。他にKnife partyなどが頭角を表すも、やはり二番煎じ、ただうるさいだけの音楽になってしまっている。もはやEDMで作れない音、まだ作られていない音は存在しないに近く、もしあっても確実に近い将来誰かが見つけ消費される音楽となるだろう。日本では中田ヤスタカが有名で、きゃりーぱみゅぱみゅの音楽を手がけているもやはり曲調がどことなく同じくヤスタカが手がけるPerfumeCapsuleに似てしまっている。そういった意味では、このSkrillexのSummitは、映像と音楽の融合という新しい動画という作品で、あくまで「音楽の派生系としての」”動画”として、新たなアートの可能性を秘めている気がする。Dubstep特有の4つ打ちに乗せた変則的なメロディによって映像を切り替えるという、コレもまた音楽の特性を生かした映像編集であって、ここにオリジナリティと、何となく美しいと感じさせるセンスには感動する。個人的にKraftwerktour de france、DaftpunkのHarder,Better,Faster,Stronger以来の新しい電子音楽の風を感じた。今でもたまに再生したくなる動画作品だ。