孤独hack

”おひとりさま”人生にをちょっとラクに

自由の必要条件としての孤独と結婚における妥協点の模索

人は自由を好む、自分のしたい事をしたいだけしたい時にできる、そんな時間、経済的な自由を人は手に入れようと日々努力する。

 

自由と孤独はセットである

しかし、「完全な自由」は「完全な孤独」の状態でないとなり得ない。なぜなら、孤独ではない状態、つまり自分の行動に影響をあたえる誰かがいるということは、自分の行動が何らかの理由で制限されるからだ。結婚して奥さんがいれば、孤独ではなくなるが、休日の買い物などに自分の時間を使わなくてはいけなくなるだろう。孤独でなければ、「完全な自由」を手に入れることはできない。孤独であれば自由とは限らない(植民地から連れてこられた孤独な奴隷は自由ではないが孤独だ)が、自由であれば孤独なのだ。つまり孤独は自由の必要条件という事になる。

 

ここでよくある反論は、「自分の行動に影響を全く与えない誰かと一緒に居れば自由も孤独じゃない人生も手に入る」であるが、これは本当の意味の孤独の理解を間違えている。

 

孤独の真相

孤独でない状態というのは、別に「ただ一緒の空間にいる人間がいてくれる」のではなく、「心から信頼できる人が近くにいてくれる」状態の事である。お互い頼れたり頼られたり甘えたり甘えられたり、自分の人間臭い部分を出す事ができて相手の人間臭い部分も受け入れられる、そういう持ちつ持たれつのような、信頼の上に成り立つ人間関係が成立している人間と、そばにいれる、何らかの形でつながっている状態の事だと思う。

 

話を戻そう。自分の行動に全く影響を与えないというのは、自分のいいなりになる状態なのであって、それはもはや召使いに近い。召使いと「心から信頼」できるだろうか。相手は「人間臭い部分をさらけ出し」てくれるだろうか。これは持ちつ持たれつではなく、とにかく持ってもらっていて自分は何も持たない、状態である。この状態は「ただ一緒の空間に、ホモサピエンスが存在している」だけであり、実はこれは2人とも孤独な状態であると言えるだろう。

 

自分のエゴと孤独

エゴを貫き通せば、孤独で自由な人生になるだろう。エゴを削って、信頼できる人と妥協点を見つけて自分の自由を差し出すのであれば、孤独でない人生になるだろう。この「エゴの削り具合」はアナログな作業で、自分に合わせて好きなだけ削る事ができる。

 

「どの程度の自由(孤独)で妥協するか」で相手を選べる

孤独に強いし自由が欲しいけど完全な孤独は嫌だ、という人は、自分のエゴを小さいスコップで少し削って相手に差し出し、むこうも同じような量のエゴを差し出してくれる人を探そう。孤独に弱く自由はいらないけれどとにかく信頼できる人と一緒にいたいという人は、自分のエゴを大きなシャベルで削って相手に差し出そう。その差し出したエゴと、相手が差し出してくれたエゴが同量でないと、一方が孤独を感じ(エゴを多めに削り自由を過度に差し出し)一方は窮屈に感じる(相手よりエゴを少なめに削り自由を求める)だろう。そこが合う人とは、男女問わず何となく人間関係がうまくいく気がする。

 

まず自分は自由と孤独ー妥協の間で、どのあたりに位置しているのか把握する必要がある。そしてさらに、多くの人間と社会に出てふれあい、多くのタイプを知る必要がある。そうして、自分と同じようなタイプの人と結ばれれば、それは幸せになるだろう。

 

もしかしたら、世間一般に「価値観が合う」などとぼんやり表現されているのは、この事なのかもしれない。