孤独hack

”おひとりさま”人生にをちょっとラクに

ジムを続けるためのちょっとした7つのコツ

「ジムを始めたはいいが、どうしても3日坊主になってしまう」という声をよく耳にする。実際、僕もジムに行き始めて、しばらくは続いたものの、ある時急に億劫になってしまって行かなくなった時期があった。今となってはもうその心配は無いが、その時ジムに行くのが億劫になってしまった理由と、その防止方法についてまとめた。

なぜジムが続かないか

いくつか考えられるが、主な原因としては以下の通り。

  • 目標を見失った
  • 飽きた、楽しめなくなった、モチベーションが下がった
  • 忙しくて行く時間が無い
  • しばらく行かなかった時期があって、それから行くのが面倒になった

逆に、これらの問題を解決できさえすればジムを続ける事はそんなに難しく無い。ではこれらを解決する具体的な方法を説明する。

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1、ライバルをつくる

やはりライバルというのは、どんなスポーツに於いてもお互いを切磋琢磨する上で必要な存在だ。ジムも例外ではない。なんかジムに行くのが面倒だな、と思っているときに、ジムに通っている友人から「今日初めて90kgのダンベルあげたわ」「今から卵と鶏肉でタンパク質補給する」なんてメッセージが来たら、どうだろうか。少なくとも男ならムッと思うはずだ。負けてられるか、という感じ。このライバルがいてくれる事は、お互いにとって大きなメリットとなる。自分からすれば、相手がこういうメッセージを送ってくる事で負けん気発動、トレーニングに勤しむ。今度は自分が「90kg余裕だった、俺100kg行ったよ、今日」なんてメッセージを前回の悔しさを払うため送信する。すると、相手も「ああん?」って気になってまたトレーニングをする、また結果を出してメッセージを送信する、、、と言ったように、ライバル関係というのはジム通いの大いなるモチベーションとなりうる。

では、どうやってライバルをつくるか。それは「身近な人をジムに誘う」が最も効率の良い方法だと言える。家族、親友、恋人、誰でも良い。僕としては、父親をジムに試しに誘ってみたら、もうかなりいい年にも関わらず、かなり激しいトレーニングをするようになった。もはや日々若返って行く自分の体を見ながら上半身裸で家をうろつくようになった。使っているダンベルもだんだん重くなっていき、ついに僕を越してしまった。越された時にこう思った。「いやいや、なんで1世代前のおっさんに負けてんだ…」と。そうしてまた、僕はトレーニングに注力するようになった。ライバルというのは常に無限の成長を支えてくれる存在なのだ。実家にアンダーアーマーとダンベルを父の日にプレゼントした日から、父は僕の良きライバルとなった。

 

 

FIELDOOR ダンベル10kg x2個セット ポリエチレン製

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2、義務にする

どれだけ忙しくても、歯磨きを怠る人はあまりいない。どれだけ忙しくても、服を洗濯しない人はいない。なぜならこれらは、生きて行く上で必然的に義務となっていて、自分の中で「やらないといけない」という気持ちになっているから、続ける事ができるわけだ。ある種のクセと言っても良いかもしれない。ジムもある種のクセにしてしまえば良い。例えば、マイルールを作る。水曜日の夜と土曜日の午前中は絶対ジムに行く、と決める。しばらくそれをこなす。こなさないと気持ち悪くなる。逆にそこまでこなせるようなルールに自分で調節する。そうしてルーティンになってしまったジムは、なんだか義務なようになってきて、あまりモチベーションがあがらなくてもジムに行くようになる。しかし、人間は不思議なもので、行ってしまってトレーニングを始めさえすれば集中できるのだ。そういう生き物だ。自分がもてるギリギリの重さのダンベルをもち、全身の筋肉で体幹を維持する、そういう状況になると、人間の脳は戦闘態勢に入る。戦闘態勢に一度入ってしまえば、それは昔でいう「戦争」の状態であって、脳と体は一気に興奮する。興奮して全力で挑まないと、死んでしまう、という過去が何万年にもわたって脳にインプットされている。そうして極限状態を作り出しさえすれば、いくらモチベーションが上がらなくても、上げざるを得ない、体が勝手に上げてくれるので、とにかくジムに行く、ここまでのステップを義務化してしまうのは非常に有効だ。

 

3、風呂がてら行く

これは一人暮らしの人に有効。せっかく月会費を払っているのだから、なるべく元を取りたい、という気持ちは誰にでもあるだろう。その気持ちは大事で、とにかく「ジムに行くハードルを下げる」事が重要だ。まるでコーヒーを買いにコンビニに入るように、ガソリンを入れにガソリンスタンドに行くように、ジムに行く。その際、トレーニングをしなくても良い。お風呂に入ってサウナに入るだけでも良い。というのも、そうして気軽にジムに行ける、ジムに通う事が生活の一部になると、「なんとなくジムに行くのが億劫だな」と思う気持ちがなくなる。ジムが近くなる。ジムが近くなって、行く回数も増えると、知り合いも増え、受付の人も顔を覚えてくれ、ジムに於ける人間関係がある程度構築される。そうすると、それもモチベーションにつながってきて一石二鳥なのだ。

 

フックス お風呂セット

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4、シューズとウェアを買う、形から

 形から入る、というのが思いのほか有効なのがジム通い。やはり良いシューズと良いウェアというのは、ジムにおけるトレーニングを最も快適に過ごすよう作られた物である、というのが理由だ。僕は今でも覚えている。ナイキの高いランニングシューズを買って、ジムで初めて走った時の感動。足が軽くて思い切り地面を蹴る事ができて、地面を指先えぐっているような、そんな確かな感覚。こんな感覚があるのかと、今まで走った中で最も感動的であった。こういう技術に頼った感動体験は、ある種ジム通いにおける「初期のモチベーション低下」を短期的に軽減させる事ができる。そうして新しい靴、ウェアをどんどん買い足していく。それも面白くなっていく。女性だとファッションを気にする。ジムにいる人は基本的にファッショナブルな服装が似合うスラッとした人が多いから、余計にその「無言の争い」みたいなものが助長されている気がする。男性だって無言の争いがある。最初はだらしないボディラインを隠すために、だぼだぼのシャツのようなものを着る人が多い。しかし次第に体がしぼられていくと、今度はあえてラインが出るウェアを買って着るようになる。更衣室で「見ろ、俺の筋肉を」と言わんばかりの人がたくさんいる。それで良い。彼らは自分のトレーニングの成果を、ウェアと組み合わせる事でお互いにアピールしあい、モチベーションを高めているのだ。いわば「全員ライバル」と言ったところか。シューズとウェア、これらは初期には必要なものでしかないが、だんだんと楽しみの1つになってくるのだ。

 

 

5、雑誌を買う

雑誌を買って読んでも別にモチベーション維持にならない、という事はわかっている。かろうじてキレイな体をみて「こうなりたいな」と思う程度である。しかし、雑誌を買う事は自分を奮起させる事に必要なのである。雑誌が家にあると、友人や恋人、家族などの来客があった際、それが彼らの目に入る。すると、「トレーニングしてんの?」という質問が出てくる。もちろん、雑誌1冊じゃああまりきかれないかもしれないが、何冊も置いてあると間違いなく質問される。もちろん通っているのだから答えはイエスなのだが、少しサボってたるんだ体を恋人や友人、家族に見せたら彼らはどう思うだろう?「なんだ、トレーニングしてる割にはだらしねえ体だな」なんて思うだろう。そう思われたくない、という負の原動力が湧いてくる。「トレーニングしていて雑誌もこんなに買っている、とバレたからには相応の体にならなくてはしめしがつかぬ」という事だ。モチベーションのドーピング的役割を果してくれるのが、(大量の)雑誌なのだ。

 

Tarzan (ターザン) 2014年 5/22号 [雑誌]

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6、モデルの写真集を買う

男性なら女性、女性なら男性モデルの写真集を買う。部屋でそれを眺める。もちろん、それ自体がもはや娯楽でもあるが、そこで「この女もしくは男と、釣り合えるような自分になってやる」と思いながら写真集を眺める。「もし仮にこの人とセックスしたとしても、恥ずかしく無い体」をイメージする。中々最初は恐ろしい想像になってしまうが、目標としてはかなり高いところにセットされるので、達成できなくても意外と効果が出ていた、という感じになる。端的に言うと、異性を意識する、という事になるのだけれど。モチベーションとしては、やはり異性にモテたい、それで良いと思う。人間だもの。動物だもの。優秀なオス(メス)としてみられたいのは当たり前だもの。

 

三津谷葉子 写真集 『 27+3 』

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佐野ひなこ ファースト写真集 Hinako

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7、こまめに体脂肪を測定する

最後に王道。特に意識したいのが体脂肪率。パッと見の体が美しいのは、体脂肪率が低いからであって体重が少ないからではない、というのは皆さん同意していただけると思う。ガリガリの体は全く美しくない。そして、体重を減らすのは、摂取カロリーを消費カロリー以下にすれば良いだけの話であって全く難しく無いのけれど、「筋肉を落とさず脂肪だけ落とす」事は難しい。単純に摂取カロリーを消費カロリー以下におさえつつ、筋肉トレーニングと有酸素運動をする、ただそれだけでそれを実現できるのだけれど、中々どうして体重が減った時は筋肉も減っていたり、筋肉が増えた時は体重も増えていたりするものだ。そこで、常にその体の美しさの指標とも言える体脂肪率を測定、その上下に注目するクセをつけたい。なるべく家でも測定できる環境が良い。少しでも体脂肪率が下がれば、自分の体がより客観的な美をまとった事になり、6番目の方法であげた「異性を意識する」事と組み合わせるとかなり嬉しいわけだ。

 

TANITA 【乗った人をピタリと当てる「乗るピタ機能」搭載】 体組成計 ホワイト BC-754-WH

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最後に

健康は金で買えない、と良く言ったものだが、それは昔の話であって今は違う。科学に支えられた医療の促進と、その一次予防方法の進化によって、人工的な介入で健康を買う事ができるようになった、と僕は思う。つまり、昔は買えなかった「健康」という商品が人類の科学的進歩によって買えるようになったのだ。それが運動生態学、運動生理学、医学なら内分泌代謝学であって、それらに裏付けされた方法に則って人類は人工的に健康を手に入れたのだ。目の前に買える健康があって、それを買わない、という選択は、果して賢い選択なのだろうか。

「一人暮らしが長過ぎると良くない」と言われる5つの理由

あまりにも一人暮らしが長いと、一人暮らしの快適さに慣れてしまう。どれだけ自堕落にしていても、1ヶ月掃除しなくても、皿を洗わなくても、誰も何も文句を言わない。誰も何も指図してこない。好きなときに好きな物を食べ、飲み、自分のためだけに家にいる時間全てを使う事ができる。そんな一人暮らしをずっと続けていて、いくつか弊害がある事に気づいたので書き出してみた。

 

1、「他人と妥協点を見つけて共同生活する」事ができなくなる

誰かと一緒に住むという事は、自分の時間をその人のために使う必要が出てくるし、その人の行動によって自分の行動がしばられてしまう事がある。例えば、お風呂はどっちが先に入るとか、後がつかえるから早く入ってとか、そういう不自由が出てくる。ご飯だって、誰が何を食べたいとか、何が食べられない・嫌いだからそのメニューはやめてとか、そういった不自由も出てくる。こういう何かしらの不自由は共同生活につきまとう。この不自由を全く感じる事無く、それに慣れてしまった場合、その不自由さと自分の身勝手さを妥協させる事ができなくなってしまう。

 

2、口を動かさない

電話でもしない限り、一人暮らしで口を動かす機会などまず無い。というか、笑いもしないので基本的に顔の筋肉を動かす事がほとんど無い。そうするともう、顔が固まる。動かしたくても動かない。悲しきかな。人間としての何かを失う気がする。まあ、今はLINEとか無料通話アプリがいくつもあるから、仲の良い一人暮らしの人がいればそいつと電話をすれば良いのだけれど、長く一人暮らしをしていると周りも結婚したりして、電話する人もだんだんと減っていくもの。この問題は地味に大きい。

 

3、日々のメリハリが無く精神衛生上よろしくない

会話をする事が無いと、やはり人間は社会的動物であるから、どうしても陰鬱な気分になる。というのも、生活にメリハリが無いのだ。起床、飯を食い仕事へ。帰宅、飯を食い風呂に入りもろもろを済ませ、就寝。この繰り返し。こうして独りでいる事が定常状態になると、「一体何のために生きてんだろう、俺」なんて思ったりする。そうなるとやはり良く無いので、今度は自分から日々のメリハリをつけようとする。逆に、新しい趣味を始めたり、何か活動、変化のある活動をしようと(個人的にはジムがオススメ)しないと、日々のメリハリがつかない。

 

4、アルコールを摂取しがちになり健康を損ねる

人によるかもしれないが、誰かと一緒に暮らしていると、別にお酒を能動的に飲もう、という気があまり起こらない気がする。正確に言うと、別に飲まなくてもいいかな、という感じ。独りだと特にやることもないし、先ほど述べたように日々にメリハリが無いので、少しでも変化をもたせようと?アルコールに頼る(人も出てくるはず)。また食事も適当でいいので、例えばきっちりとした夕食をとらず、おかずとビールだけ、という事もできてしまうわけだ。現に俺がそうだ。まあ当たり前だけどこれは健康に良く無い。あまりにもこの期間が長いと、アルコールは動脈硬化や食道がん、胃がんのリスクだし、肝硬変にだってなりうる。最悪アル中になってしまうかも。

 

5、一人暮らしを辞められなくなる

少し弊害はあるけれど、それさえ慣れて気にならない、もしくはうまくクリアできる環境を自ら作り出す事さえできてしまえば、一人暮らしは非常に快適だ。自由だ。この快適さに慣れてしまう事で、この一人暮らしを「辞めよう」と思えなくなってくる。そうするとまた一人暮らしが長引いて、また一人暮らしの快適さに浸ってしまう。そしてまた…というふうに、時間が経つにつれ加速度的に「あ、俺一人暮らし辞めるの絶対無理だ」なんて思ってしまう。

 

 

寂しさを紛らわすための「忙しさ」について

誰しもが一度は体験した事があるのではないだろうか。例えばクリスマスに何も予定が無いとして、その日はあえてバイトを入れる、とか。他にも周りが忙しくて誰もかまってくれない時、何か無理矢理予定を入れて忙しくする、とか。きっと誰にもこの経験はあると思う。特に女性で多い気がするが、その理由に対する考察は以前書いた。

僕はこの方法は、短期的に寂しさを紛らわすには良い方法だとは思うが、ずっと続けるようなものでもない、と思う。50歳60歳になって、この手法で寂しさを紛らわすのは間違っていると思う。それにはいくつか理由がある。

 

いつかは孤独と向き合わないといけないのに逃げている

まず、この手法は、寂しさや孤独感から逃げていると言える。それ自体別に問題にはならないのだけど、逃げ続けていると、いつか本当の寂しさに打ち拉がれるか、もしくは「寂しさから逃げて忙しくしている」間に死んでしまう。つまりいつかは自分の孤独感、寂しさのようなものと向き合わなくてはいけない時が来るから、あくまでそれまでの間に少しだけ使う方法に過ぎない、と認知して使うべきだ、という事だ。そうしないと、最終的には「気づいたら死んでた」か「うつ」になっておしまいだろう。

 

孤独という贅沢な時間をムダにしている

本来、孤独で自由な時間というのは、かなり贅沢なものだ。おそらく人間、一部の霊長類にしか無い。他の生物は生きるために他生物を殺し食らう事に命を掲げ、子孫繁栄のために生殖活動をし子育てに躍起になる。そして次世代が育てば、自分は死ぬ。カマキリのメスは生殖が終了した際に「もう用無し」のオスを「栄養源として食べる」し、クモは母親の腹から孵化したらその勢いで母親の体を「栄養源として食べる」わけで、彼らは生きるために生きている。人間や猿にだけ、趣味や遊び、補食と生殖以外のための活動にあてる時間が許されている。それは我々が進化をし、捕食者として優秀であるから、補食と生殖だけを目的に生きるには時間が余りにもあまって、結果的に「文化」が生まれ本、学問、スポーツ、音楽、などの活動がうまれた。これらの活動を行うのは、あくまで生存に必要な作業に使う時間を全体の時間から差し引いた「余りの時間」で行う事ができる。そしてその活動を完全に個人の自由に行える時間が、「孤独な時間」なのである。もちろん、他動物でも孤独な個体は数多く存在するが、彼らは孤独な時間を全て補食にあてている、つまり生存活動に必要な作業にあてている。そこが人間は大きく違う。人間はその「孤独な時間」を、「孤独で自由な時間」にする能力を持っている優秀な種だ。その孤独で自由な時間を、自分の趣味、文化的活動にあてないのは、人間の特権を放棄している事になる。なんとももったいない。

 

孤独に向き合い自分の時間で好きな事をできるようになる

最終的にこれが最も人間らしく、文化的で、死ぬときに「良い人間としての生を生きたな」と思えると思う。孤独から逃げるだけではいけない、その時は心安らぐかもしれないが、いつかは向き合わなくてはいけない。向き合うまでの時間が長ければ長いほど、失われた時間の膨大さに気付き絶望するだろう。

孤独な老人の末路、クレーマー

今日、少し空いた時間があったのでゆっくりしようと相も変わらずスターバックスに寄った。正月三が日とだけあって、あまり混んでいないし少し本でも読もうかと思って。しかし、決してゆっくりと静かにコーヒーを飲みながら読書、というわけにはいかなかった。

うるさいジジイがいた

いわゆるクレーマーというやつ。挨拶がなってない、スマイルが足りない、俺が経営者だったらこうする、などなど。基本的に「サービスに対する経営者目線での批判」がほとんどで、サービスに対してあつく語っていた。おかげで全く休まらなかったよ。

クレーマーの根源

話はここから。一体彼は、なぜそうなってしまったんだろうか。たまにクレーマーという人種がいるが、基本的に共通しているのは「上から目線」「同じような事をくどくどと」が多いと思う。「上から目線」なのは、自分がサービスの受け手であって、かつサービス提供者が大学生みたいな若い世代の人が多いため、結果的に「年配」というパラメータがクレーマー属性と言える。「同じような事をくどくど」言うのも、もはやサービスに対する改善を目的にしているのではなく、クレームを入れる事を目的にしている、もしくは自分の口の体操を目的にしているかのどちらかしか考えられない。

孤独な老人の末路

彼らは話し相手がいないのだ。今までの人生で、孤独にならないように周りと妥協し、相手を気遣い、自分をある程度犠牲にして相手に合わせるような事をしてこなかったのだろう。人間関係のメンテナンスを怠った結果、彼らは死に近づいてなお孤独で、話し相手を求めている。しかし、若い人と話は基本的に合わないし、ましてや人と話ができるタイミングというのも、彼らが何かしらの経済活動を行っている際に必要なコミュニケーションだけ、という限定された条件から、クレームという手段をとらざるをえなかったと考えられる。若いサービス提供者としか、会話できるチャンス(とはいえそれは本来その経済活動をする上で必要最低限なもの、「◯◯を1つ」「××円になります」といったもの)がないが、若いサービス提供者と会話できる方法が「上から目線の文句」しかないのだ。悲しきかな、彼らは人と話したいがために、周りの気分を害し、店の雰囲気を悪くし、より孤独への一歩であるクレームを入れるのである。

日本の未来を考える

今ですら4人に1人が高齢者と言われる日本だが、あと数十年で2人に1人が高齢者になるらしい。そうなると、もはや高齢者が経済活動を行うようになる。現行の年金制度では年金は間違いなく減る(減らさなければ国が滅びるので減らすに違いない)、経済活動の生産を行う人口が減るが、これは年金の減少によって無理矢理「高齢者の労働」によって補われるだろう。そうなると、「サービス業に従事する人」いわゆるパートやバイトと呼ばれる雇用形態で働く人、が若者から高齢者に取って代わるだろう。そうなると、高齢者は基本的に、最も会話をするチャンスがあるサービス提供者が高齢者という事になり、先ほど述べた「上から目線」になる事が難しい。なぜなら同年代であるから。同年代は同年代のコミュニティがあり、やはりそこに文句やクレームを入れると、そのコミュニティ内で村八分に合う。そのコミュニティとは高齢者のコミュニティであり、そこに自分も含まれる。つまりもう、「孤独の対処法としてのクレーム」を使う事ができなくなる、と予想できる。今の世代が孤独な老人になる頃には、今よりもより辛く苦しい未来になっているに違いない。

 

引き際の美学 (朝日新書)

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無関心で無感動な機械のような人

 涙もみせない、笑っていても本当は笑っていない、その場に合わせて笑っているだけ、何かしたい事とか何か夢とか、そういうものは何も無い、感動というものが無い。周りに共感できないので、孤独を抱える事になる。

なぜ機械のような人が存在するのか

感動が無いのは、相手の立場にたって共感する事ができないからであり、相手の立場に立つ事ができないのか、立場にはたてるが共感ができないのか、もしくは両方だという事になる。相手の立場に立っても、なおその感動や苦しみのようなものに共感できないのは、本当に本人がその同じ境遇だとしても、感動や苦しみを感じ得ないから、であるとしたら合理的だ。つまり、感動や苦しみを感じ得ない、仮に自分が物理的に損傷したり、精神的に損傷しても知った事ではない。「自分がどうなってもかまわない」という、自分の気持ちの中で”自棄”を持っている。だとしたら、この機械のような人になっても何らおかしくはない、という事になる。

自棄を持つ人の特殊能力

自棄を持つ人は、リスクを恐れない。また、相手の苦しみや悲しみを理解できないから、相手を攻撃する時には徹底的に全く以て同情せず、躊躇無く攻撃できる。リスクテイクして、ガンガン資本主義の波を進んで行くような人、とポジティブにとらえる事ができる。

人類が進化するにつれて増えて行く

実は、この種類のパーソナリティ(反社会性パーソナリティ)を持っている人が、大活躍する場面がある。戦争である。敵国の軍人を殺す事に、一切の躊躇はなく、常人ではとても考えられないほど危険な事を思いつきためらう事なく実行する事ができる。相手の予想に反した行動は、時として勝敗を逆転させうる。明らかな戦力差を埋める事ができる。まさにイカれた奴、と言ったところだろう。しかし、彼らは戦争となると非常に強く、個人的に、敵の船に大して面積が最も大きくなるように自分の船を配置し、敵の大砲が最も当たりやすい配置だが、こちらの大砲が最も数多く打てるというイカれた作戦でロシアのバルチック艦隊を破った東郷平八郎や、織田信長などはそのてのパーソナリティだったのではないかと思っている。いずれにせよ、そういう戦いに強いパーソナリティを持っている人が、祖先が活躍したためその子孫が多く存在し、その子供、そのまた子供、というように時間経過とともに増えて行く、という事は容易に予想できる。

向いている職業

これは完全に私見だが、そういう人は自分が組織の頭になり、大なり小なり組織を抱えてひっぱっていくような職業が向いていると思う。簡単に言うと経営者に向いていると思う。辛く苦しく、険しく、リスクも非常に高いが、それを恐れず突き進める、そんな人は、このパーソナリティ以外にあり得ないと思う。いわば資本主義はマネーを使った戦争とも言えるし、きっと毎日が生き生きするはずだ。逆に、大きな組織に一員になるのは向いていないかもしれない。何せ集団の中では浮いてしまうから。トップは1人だが、それを「1人ぼっちで浮いている」ととらえる人はいない。トップが1人なのは当たり前だからだ。孤独が社会的に合理化される唯一の職業だと思う。

この手の人が絶滅する時

それは地球の資源を人類が食らいつくし、資本主義と人類の発展が終了した時だと思う。それまでは、世界は彼らの天下だろう。